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No.51
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※ネームレス、ソーンズの名前も出てきません
こんこんと、ドアのノックの音が響いた。どちら様ですか、と声をかければ、聞き覚えのある声が帰ってきた。アパートの住居人の中で、1番の問題住居人。
彼が私のもとに来るのは、大体が何か物を壊したときだ。あとは備品を焦がしてしまったとか。
それは、彼が化学を専門にしていて、部屋で実験を行っていることに起因するのだが。なぜ部屋の中での実験を許しているのかと言われれば、実のところ、私もよくわかっていない。彼の入居を許可した先代管理人──私の父が、実験も含めてOKを出したのだ。彼曰く、部屋でやっていい実験は選んでいると。
「どうしたの?」
私はドアを開ける。彼の姿を見上げると、彼は神妙な顔つきをしていた。彼のこんな顔は初めて見た。いつも何を壊したって、こんな表情をしていたことはないのに。
「話がある」
そう切り出した彼の声色は、いつもより真剣みを帯びていた。そんな彼の様子を見ていれば、嫌でも内容を察してしまう。
「近いうちに、ここから退去したい」
「……引っ越す、ってこと?」
「ある意味ではそうかもしれないが」、彼はそう言いながら、首を横に振った。そして、はっきりと私に告げる。
「イベリアを出ようと思っているんだ」
わずかな希望さえも打ち砕かれる一方で、やっぱりそうだ、と心の底では思っていた。
わかっていた。今までだってそうだった。ここを出て行く人で、イベリア内を行き来する人なんてほとんどいなかった。みんな、イベリアを出る決意を固めていた。
エーギル人にとって、イベリアの状況は日に日に悪くなっている。いつ裁判所の人間が来て、連れていかれるかもわからない。イベリアにいる限り、エーギル人に安寧などないと言われているようだ。
イベリアを出たほうが安全だという彼の選択は、何も間違っていない。
そんなこと、わかっているのに。
「そっか。それは寂しくなるね」
私は笑って彼に返事をした。
私にできることは、その選択を受け入れて、送り出すことだけだ。
「今まで世話になった」
「本当だよ。色々大変だったんだから」
今まで散々、彼の実験の失敗を見てきた。物を壊してしまったり、部屋を少しばかり焦がしたり。そんな人は彼だけだった。
そのせいで、彼と顔を合わせる機会も、話す機会も、他の住居人よりずっと多くて。
部屋の修繕が大変だったといえばそうなのだけれど、彼に実験の様子を聞くのも、見るのも私は好きだった。
それはきっと、私では一生経験することのない出来事だったから。何もかもが新鮮で、楽しかったのかもしれない。
「今までありがとう」
私の言葉に、彼は少し驚いた様子を見せた。なぜ自分がそんなことを言われるのか、と言わんばかりだ。
「お礼を言うのは俺の方だろう。本当に世話になった。ありがとう」
彼は穏やかに微笑んでいた。この表情も、もう見られないのだと思うと、少し胸が苦しくなった。
*
私は扉の前に立っていた。かつて、彼の部屋だった場所だ。
扉を開ける。
机にも床にも積まれていた資料の束も、実験器具も。壁に貼られていたメモも、飾られていた紋章も、何一つなくなっている。
窓を開ける。
一際大きな風が部屋に入り込む。
吹き抜ける風と一緒に、彼がいつも持ち歩いていた薬品のにおいと、煤のにおいがした。まだ微かに、この部屋には彼の痕跡が残っているのだ。
「……ちゃんと掃除しなきゃ」
早く、彼のことを思い出にできるように。
20230506
#ネームレス #ソーンズ #夢主
#2023